「ばあちゃんが危ない。帰ってこれんか」
1年前、旅先のクロアチアHvar島にいたときに一通のメールが届いた。
兄からのこのメールが、旅を中断し、帰国する決心をさせた。
少し前から"早枝(さえ)" ばあちゃんが体調を崩してた事は知ってたけれど、そんなに悪化してたとは知らなかった‥
大急ぎで格安のチケットを探した。ウィーンまでバスで行き、そこからドバイ経由で日本に飛ぶことになった。
「"Moku" のプレートは、あなたが再び戻ってくるまで外さないでおくわ」
5月以降、おれを滞在させてくれたアニーは、作業部屋の入り口に置いてた表札を外さず、別れを惜しんでくれた。
※ 荷物の半分はまだアニーの家の物置に置きっぱなしなので、いつか取りに行く予定です。
2006年の12月以来9ヶ月間滞在したこの島を、ついに去る時がきた。
最後に隣人のジュンコたちと青く輝くアドリア海に素っ裸で飛び込んでから、フェリーに乗った。
第二の故郷のようなHvar島とのお別れ
帰路
フェリーの中におれと同じビデオカメラを持ってる男がいたので話しかけてみた。ルーカスというギリシャ人のディレクターだった。彼はおれと同じくバルカン半島のドキュメンタリーを撮っていた。
おれたちはすぐに意気投合し、船のレストランで彼の作品のためにインタビューに応じた。
日本人から見てバルカン半島はどう映ったか?という質問だった。
複雑な歴史の問題を乗り越え、自分たちの国の未来を作り上げていこうとするボスニアの若者たちと出会ったことや、行く先々の町で楽器を持ってジャムセッションするだけで友人ができ、彼らが自分たちの部屋に泊めてくれたので、そういうバルカン人のオープンな気質などについて話した。
ルーカスとは、お互いの作品ができたら見せ合う約束になっている(彼の作品はギリシャの国営放送で放送する予定だそうです)。
一晩かけてバスでウィーンに着くと、飛行機の時間までレインボーギャザリングで出会った友人、アレキサンダーのアパートで一休みできたので、まるで世界中に仲間がいるような気分で嬉しくなった。
生粋のウィーンっ子、アレキサンダーの部屋で一服。彼は映像クリエーターで、イベントなどで会場を光で演出するアーティストでもある。
Hvar島から36時間かけて日本に戻るなり、ばあちゃんのいる広島の伯母のところまで更に数時間かけて直行した。
長い帰国の旅の末、やっと早枝の元にたどり着けた。
小さいころ両親が共働きだったので、おれは祖父母と過ごす時間が多かった。ばあちゃんはいつも屈託無く笑い、周りを明るく照らす優しい太陽のような人だった。
戦争中、日本中が極貧で大変な時期に、ばあちゃんの家だけは常に笑い声が絶えず、「あの家には何がそんなに可笑しいことがあるのだろう?」と周りの人たちが不思議がったエピソードがあるほど、早枝の明るさは"本物"だった。
軍人のじいちゃんが2.26事件に加担しようとしたのを、ばあちゃんが泣いて止めたというエピソードもある。左上段がおれの母親。
2006年、バルカン半島へ旅に出る直前、ばあちゃんを訪ねた。
それまでの4年間、東京でバタバタ仕事していて、忙しさにかまけて一度もばあちゃんどころか実家にも戻っていなかったから、旅に出る前に一度訪ねなきゃと思ったのだ。
「これで会うのは最後になるかも知れない」ばあちゃんは涙ぐんだ。
「何言ってんだよ!」
その時ばあちゃんは96才だったにも関わらず、インタビューを頼んだら1時間以上も波乱の人生を語るほど元気だったから、まだまだ時間はあると思っていた。
最後に、早枝と強く抱き合って旅に出た。
それから1年と3ヶ月の月日が過ぎた。
最期の再会
「もう目も開かないのよ」と伯母さん。
寝室には、点滴のチューブにつながれ、寝たきりになって、すっかり変わり果てた姿の早枝がいた。
おれは枕元にいき、大声で叫んだ。
「ばあちゃん!おれだよ!会いに帰ってきたよ!」
その時、寝たきりで開かないはずのばあちゃんの目が、開いた。
そして涙が一筋こぼれ落ちた。
焦点の定まらないその目は、何かを探してるようだった。
それから目を閉じ、再び眠ったように静かになった。
その一瞬の出来事は、まるで夢でも見てたかのようだった。
「・・信じられない」
ずっと看病してきた伯母はその様子を見て、ただ驚いていた。
それから旅の疲れを癒す間もなく、ずっと冷たくむくんだ早枝の手足をさすってたけど、翌日、早枝は静かに息を引きとった。
ばあちゃんは最期まで頑張って、おれが帰ってくるのを待っていてくれたんだ。
冷静にしなきゃ、と思っていたのに涙が止まらなかった。母や伯母たちの方がよっぽど気丈だった。
メッセージ
おれがバルカン半島への旅に出た直後、早枝は遺書を書いてた。
「皆様ありがとう!
財産も何もない私が遺書など書く必要はないのですが只皆様にお礼が一言言いたくて一筆したた
96才まで何とか自分のことは一人で出来ましたが明日のことは分
この長い年月を皆様に愛されて生きてきたことは最高の幸せでした。
何もお礼が出来ませんが只一つ何年も毎日朝晩皆様の一人ひとりの
皆さん健康で生きてください。
天国で見守っておりますよ。2006・6・13(火)
幸せな一生でした ありがとう!」
自分の旅を終わらせてでも、早枝の長い旅の終わりを見届けることが出来てよかった。最後まで大切なものを教えてもらった。
ばあちゃん、重い荷物を降ろして、ゆっくり休んでね。