先日、映画祭に参加した時に取材を受けて『バルカンヘ』をオーストリアの新聞で紹介して頂きました。
今までもバルカン半島で上映した時に何度かメディアが来てくれましたが、それは主人公・ベキムが作家として成功していた事が大きかったので、純粋に作品の力で受けた今回の取材は嬉しかったです。ベキムも喜んでくれました。
訳は以下の通りです。
カメラを通して見た日本とバルカンの間――
モク・テラオカは、映像作家であり "プロの旅人" としての夢を実現するまではずっと東京の工事現場で働いていた。彼はドキュメンタリー『バルカンヘ』において、一人のボスニア難民と共にバルカンを旅した。
「きみはいわゆる"日本人"じゃないねと、たびたび言われるんだ」と、モクはこう話してくれた。
その通り、麦わら帽子に長い髪、よれよれのジーンズは、とても日本から来た43歳のツーリストには見えない。
彼らといえば、週末にスロベニアの首都の中を案内してもらっているだけなのだから。
この音楽家にして映像作家、そして "プロの旅人" は、彼のロードムービー『バルカンへ』を今年の移民映画祭で上映するため、スロベニアを訪れている。
この映画祭には全世界から移民、避難所、亡命などに焦点を当てた映画とその作者たちが集まった。
モクは作品を作るために、ノルウェーに住む一人のボスニア移民と共に三ヶ月の間、バルカンを旅する。VWワーゲンとボートで、かつてのユーゴスラビア共和国を。
スタンダード(以下ス)――これはあなたの最初の作品ですか?
テラオカ(以下テ)――これは私の初めての独立した作品です。これ以前に日本のテレビで何本か作っています。その前は工事現場作業員をし、東京で資金を稼ぎました。
スーーどうやって映像作家になったのですか?
テーーある日私は世界を旅するために工事現場の仕事を辞めました、インド、ネパール、チベット、カナダ、ニューヨークの旅です。そのとき、小さなビデオカメラを持っていったのですが、自分が旅と映像がどんなに好きかがわかったのです。そして「この二つをうまく結びつけられれば」というアイデアが浮かんだのです。
私はプロの旅人になり、映像を作りたいと思いました。これが出発点です。
最初の旅から戻った時、まったくお金がありませんでした。すると偶然にも東京である映像制作会社の人と知り合い、一緒に仕事をし、映像制作の多くを学びました。数年たって、私は再び旅に出たくなりました。常に旅人でありたいという夢は変わることがなかったのです。
どこへ、という当てはありませんでした。再び旅に出るため仕事を辞める手続きを済ませ、一週間経ったとき、ボスニア移民のベキムから「一緒におれの故郷のバルカンを旅しないか」という誘いを受けました、こうしてこの映画が始まったのです。
スーーもう少し詳しくお尋ねします。どういうことでノルウェーに住むボスニア難民のベキムとこの旅をすることになったのですか?
テーーベキムはインターネットで私が旅をしつつ映像作品を作りたがっていることを偶然知ったのです。かれは一緒に旅をしてそれを映像にしてくれる人を探していたのです。そこでかれは私にメールをくれたのですが、私にとってはすごく魅力的な便りでした。しかしそのとき、私はバルカンがどこにあるかさえ知らなかったのです。
スーー日本の人たちはバルカンのことをどのように思っているのでしょう?
テーーおもに90年代の戦争を想起しますね。当時、テレビを通して恐ろしい映像を見ていたのですが、その時は紛争の原因を全く理解していませんでした。
スーーあなたはベキムをインターネット上で知った訳ですが、その旅から何を期待しましたか?
テーー当時、私はクロアチア、ボスニア、セルビアについて何も知りませんでした。しかしベキムから届いたメールは魅力的だったし、感動しました。戦争でかれは故郷を喪いましたが、旅から何かを見出したいと願ったのです。旅というものに対して私と同じ立場を持っている人間です。
スーーあなたの映画では、ユーゴスラビア戦争、移民、亡命などのテーマが取り上げられています、最初からあなたはそういう映画を撮ろうというプランも持っていたのですか?
テーーどんな映画になるのか、何も予感はありませんでした。映画の主人公がベキムであること、そしてかれは戦争に翻弄されてきたので、戦争を観客に伝えるのことが大事なことだったのです。なので私は当時、出会った人たちにインタビューを試み、当時の事をたずねたのです。
スーーあなたはたくさんの小さな村を旅し、いろんな人とコンタクトをとりました。日本人とバルカンの人々のメンタリティは比べてどう違いましたか、一種のカルチャーショックを体験されましたか?
テーーまったくありません。インドを旅したときはものすごいカルチャーショックを体験しましたが、バルカンではそんなことはありませんでした。バルカンは私には居心地がよかった、つまり、人々は「ふり」や「取り繕う」ことをしないのです。“笑いたくなければ笑う必要はないよ” と。これが日本と違うところです。日本では人々は常に礼儀正しくあること、相手に対して節度を保つよう心がけます。そうするとなるほど不和は生じにくいかもしれないが、あるグループのなかでの自由な表現はできにくいし、感情も抑えねばならなくなります。しかし、同時に私は自分が日本人である事を旅を通して痛感しますし、日本に生まれた事に感謝する事の方が多いです。
スーーあなたはユーゴ戦争の故に亡命した人々と福島の人たちが福島を喪ったことに共通点を見出しますか?
テーー一ヶ月前、福島で私の作品を上映しました。ここにはあるつながりがあると思ったからです。原則として同じ状況です。ベキムは戦争によって、福島の人々は発電所の爆発と津波のために故郷を喪いました。
上映会では人々の反応はとても感情がこもって、涙を浮かべて見てくれた人もいました。とりわけ、放射能のために二度と自分の家に帰れなくなった人たちがーー
スーー映像作家としてのあなたにとって、観客の反応は何を意味しますか?
テーー福島での上映は、私の映画上映の中でも最も感動的な瞬間の一つでした。
私は映画が自分自身のためにのみ作られるとは思いません、私の映画は人々に前向きになったり希望を抱いてもらうためのものでありたいと思っています。
スーー旅の中で、最も危険だった瞬間は?
テーーそれはドナウ川の島でのこと。そこはかつてセルビアのハードコア・ナショナリストで有名な特殊部隊の連中の住む島でした。最初、撮影していいものか、不安でした。もともと、嵐を避けようとちょっと避難した島でしたから。そりゃあ、奇妙な具合でしたね。なぜって、この人たちは戦争犯罪者であり、ハーグに行けば有罪判決を受けるべき連中ですからね。
スーーこの兵士たちは戦争で多くのボスニア人を殺しましたが、ベキムにとってこの状況はどうでしたか?
テーー私らは二日間、この島にいました。ベキムはかれらを脅かすつもりで、すぐには出発する気はありませんでした。『バルカンヘ』を観たボスニア人のなかには、私らが島に滞在中、ただ彼らと飲み、歌って過ごしただけだと非難した人もいましたが、ベキムに言わせれば:「飲んで歌う以外、何をしたらよかったと言うんだね、もしわれわれが普通に会話を始めたら、すぐに政治や歴史、それに戦争の話しになるだろ?それを避けるには飲んで歌うしかなかったのさ。」と。
スーー"プロの旅人" としてのあなたにとって、旅での最高のものはなんですか?
テーー新しい文化、新しいものの見方を発見することです。日本は島国です。そこでは多くの異文化に出会うことはあまりありません。日本にはあるユニークな文化があります。けれども、そこに暮らすとそれが普通のものになるのです。
こうして旅をすることで私はたくさんのことを学びましたし、祖国に対するものの見方も変わったのです。